生い立ち



 ■幼少時代



東京都の巣鴨で、ひいおばあちゃんとおばあちゃん、父、母、兄、いとこの家族、全員で9人の中で育ちました。

おばあちゃんは、昔話の代わりに戦争体験を話すのですが、中でも東京大空襲の話はとても恐ろしく、最後に必ず「戦争には、絶対に反対しなきゃダメだよ」と話していました。私が小学校2年の時に、両親は離婚。

母は小学校の教師をしており、忙しい人でしたが、「男女平等、女性の自立」を私に教えてくれました。

小学校、中学校時代は友人に恵まれ、学校の先生や地域の方に見守られていたので、明るく元気に振る舞うことができ、今ではそれが地になっています。

 ■高校、大学時代


一人親家庭で育つということは、決して不幸なことではなく、生活していけなくなることが不幸なんだと思います。

私の場合、母親が経済的に自立できていましたが、ことあるごとに「うちは貧乏だから」と言われていました。同じ境遇の子ども達の気持ちを理解できるのは、同じ経験をしているからだと感じています。

貧乏と言っていた母親も、私の進学の希望には応えてくれました。高校時代に進路を決める段階で衣食住、その中で一番、大切なものは食事ではないかと思いました。どんなに貧しくても、どんなにお金持ちでも食べなければ病気になり、死んでしまいます。また飽食の時代、選び方を知っていないとこれまた病気になると思い、栄養士の道に進みました。



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 ■栄養士から介護ヘルパーに
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卒業後、病院給食の仕事をしました。その頃、中学時代に知り合った夫と笹目に住み始め、1年後に結婚。夫のご両親や私の母をいずれは、介護するであろうとヘルパーの資格をとりました。

丁度、その時に代々木病院で療養病棟の立ち上げがあり、働くこととなりました。

介護は、人によって育った環境も時代も違います。これまで生きてきた生活、仕事や生きがい、皆、人それぞれの生き方があります。毎回、一からその人を学び、支援していくとても面白い仕事でした。介護を始めたばかりの頃は、子どもが出来ないことをいいことに夢中で働きました。

 ■結婚、母との別れ、出産・子育て

結婚して2年経過したころ、母の癌が発覚し、最後は介護休暇を取り、看取りました。

その直ぐ後に長男を出産。介護休暇の後、産前産後休暇、育児休暇をとることはとても申し訳なかったのですが、「休暇を取りながら、お母さんになっても働き続けることで職場の若い子たちの励みになるのよ」と先輩に励まされ、1歳にならないうちに職場復帰。

しかし、長男の食物アレルギーが酷く、保育園に入れたものの毎日、アレルギーの除去食を持参し保育士の先生と話し合いを重ねました。

下戸田保育園の給食は、市の直営で栄養士さんをはじめ、調理師さんも関わってくれました。

長男に徹底して除去食を作っていただいたおかげで、アレルギー体質も徐々に良くなり、子どもは一人で育てているのではないと実感しました。







 ■保育所不足は深刻

その後、次男を出産した後、再び復帰するのですが、2人を同時に同じ保育園に入れることは難しく「保育園におちたらどうしよう」と途方に暮れながら次男をおんぶ、長男の手を引きながら、保育所を探し回ったり、市役所へ相談に行き、日勤と夜勤のある仕事であることを説明し、どうしても同じ保育園に入れて欲しいと話ました。幸いにも喜沢南保育園に入ることができましたが、今年の「日本、死ね、保育園に落ちたの私だ」というブログには胸が痛みました。保育園に入れるか入れないかは死活問題です。女性の仕事をなんだと思っているんだ!と思いました。

再び働くものの、夜勤の仕事は難しく、次男が3歳になるまで日勤で働くことを選んだ途端、みさと協立病院へ異動となりました。片道、1時間半かけて2年通いました。三男が授かった時は本当にヘトヘトで、切迫流産をきっ掛けに退職しました。

 ■政治にめざめ、日本共産党に入党

もともと、私の勤めていた東京勤労者医療会という病院は、医療改悪や介護保険改悪に反対する運動をするなど、国民の暮らしや医療・福祉の向上に熱心に取り組む職場で、私も政治に関心がありました。『しんぶん赤旗』を読みながら、消費税問題などに矛盾を感じていたので、共産党に入らないかと勧められ入党しました。
その後、子育てしながらパン教室を開いていました。そんな生活を一変させたのが、東日本大震災でした。

その日、パン教室を終え、子どもを寝かし、掃除をしていた時、大きな揺れがあったことを今でも覚えています。死を感じました。その時に思ったのです。人は思いもよらない時に死んでしまう弱い生き物なのだと。だから、いつ死んでもいいように自分の体をめいいっぱい使って生きようと思ったのです。

その後、原発の事故があり、ママ達と放射能汚染の勉強会に参加したり、原発再稼働反対のデモにも通いました。また安保法案廃止を求めて子どもを連れて国会のデモにも参加しました。




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 ■戸田市政に挑戦を決意
   〜子育て中のパパ・ママの代弁者として〜


政治に関心が持てないくらい忙しく、政治不信になるような出来事が相次ぐ中、それでも政治が変わらなければ世の中は変わらないーーそう期待を寄せてくださった方々の声を市政へ届けたいと思い、戸田市政に挑戦することに決めました。

今回、子育て真っ最中の私が市政に挑戦する理由は、子育て中の忙しいパパやママの代弁をすることにあると思っています。

また、介護や栄養士という経験の中で、本来大切にされなければならない社会保障費が削られることに「待った」を掛けなければならないと思ったからです。

今まで頑張って生きてこられた方やこれからを担う子ども達が健全に楽しく生きていける地域を作りたい。

子どもは生まれる土地も親も選べません。とても不平等を感じる世の中で、日本国憲法の「人は生まれながらにして平等に生きる権利がある」というフレーズを読んだときに、こんなに優しい言葉があるのかと、とても驚きました。たとえ経済的に恵まれなくても、身体的に恵まれなくても、自分の幸せを追求し、健康で、文化的な生活を送る権利が私たちにはあるのです。

それが私の信条です。




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